20年前不登校だった私が体験談を語るブログ(仮)

「行きたくない」を「生きたくない」に置き換えて

『コンビニ人間』村田沙耶香 - 社会不適合者の内側から見た景色 -

23年前不登校を生業としていたみつまりですどうもこんばんは。

本日は、表題『コンビニ人間』の感想を記事とさせていただきます。

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これです

この本は、社会の多数派になれない女性と男性、両方の視点を通して現代社会を描いた作品です。

不登校・ひきこもり・ニート・対人関係が苦手・トランスジェンダー・障害等、社会から「異質なもの」として視線を向けられた・向けられそうだと感じながら回避してきた経験のある人は、少なからず共感できる部分があるのではないでしょうか。

世間で言われるところのいわゆる社会不適合者を誇張して、文学に昇華させた作品ですのでとても読みやすいのですが、描写が中々容赦ないです。

特に私は著者・作中の主人公とちょうど同い年で境遇や考え方もよく似ている為、良いんだか悪いんだか非常に引き込まれました。お読みになる際はご注意ください。

コンビニ人間』村田沙耶華 

多様な社会
個性を認める
ありのままの他者を受け入れる

なんていうキーワードを最近良く耳にするけれど
これには大きな矛盾がある

揺るぎない暗黙の了解として、枕詞に
「常識の範囲内で」が付くから

そして、この枕詞の範疇から溢れる人の
「ありのままの個性」は
周囲から矯正を強いられ
更生のレールを敷かれ
矯正がままならなければ
あっさり排除される

排除された個性は、時にカリスマ性を生む事もあれば、個人の命を奪う事もある

コンビニ人間
RADWIMPSの楽曲『棒人間』を想起させた

以下『棒人間』歌詞引用
----------------
「僕は人間じゃないんです 本当にごめんなさい
そっくりにできてるもんで よく間違われるのです

(中略)

何度も諦めたつもりでも人間でありたいのです」
----------------

生き辛さを抱えた棒人間は、最後の最後に
「それでも僕は人間でありたい」と主張する


けれど

コンビニ人間
「コンビニでありたい」のです


いつだったか、側溝に侵入し
人を覗き見していた人が逮捕された時
その人は
「生まれ変わったら道になりたい」
と述べたという

コンビニなのに、道なのに
人間を強いられて
人間と同じ生き方をしろと言われ
さぞかし大変な思いをしたのだろう

コンビニ人間も、道になりたい人も
人間の形で生まれて来なければ
心穏やかに社会に馴染めていたのかもしれない

今はまだ、世界はそういう風にできているから。

誰も「ネットそのもの」の悪口を言わなくなった

情報処理の専門学校に在籍していた当時
インターネットが世間に普及し始めていたものの、まだまだ『ネット=アンダーグラウンド=オタク』というイメージが強かった時代
スマホはもちろん、今のようにネットで気軽に物が買えるようなシステムもなかった時代

同級生の優秀な子が「DVDをレンタルする時代はそのうち終わると思う、ネット経由で映画をダウンロードしたりテレビで映画を再生できる時代が来るよ」
と話していて

そんな大容量の映画をネットで?
しかもテレビで観られるなんて、そんな時代が来たら本当に凄いなぁ

なんて思っていたあの頃から15年
あっという間にそんな時代になってしまった
しかも持ち歩けて外出先でも視聴出来る。

 

数日前、ツイッターを介した殺人事件が
大きなニュースとして報道されていた

 

昔なら、ネット絡みの事件が起きる度に
「これだからインターネットは危険」
「ネットをしてる人には危ない人が多い」
「やらない方が良い」
みたいなズレた意見がニュースと同じボリュームで聞こえて来ていたのだけれど、今回はそんな気配はほぼ無い

 

今、無料でPCやスマホから誰でも視聴出来る「一般ユーザー向けのインターネットTV」の台頭が始まっていて、その先駆けとも言えるAbemaTVでは、元SMAPの3人が出演する72時間生放送のネット配信がただ今絶賛放送中

 

誰も「ネットそのもの」の悪口を言わなくなった


そりゃ、莫大なお金を生むものの悪口は言わないよなぁ

 

このまま、アンダーグラウンドだったものがメインストリームになってしまうのかなぁ

 

「凄いなぁ」と「少し残念だなぁ」が私の中に共存している。

 

ちなみに、ツイッター上では今回の事件が報道されてもなお
「#死にたい、#自殺募集、#一緒に死んでくれる人、#殺してくれる人」
というタグを付けて発言をする人で溢れている。

人形を椅子に座らせるより、海老原君をブランコに座らせる方が何倍も楽しかった。

シルバニアファミリーを見ると思い出す
これ、あんまり好きじゃなかったなー、って。

幼少から10代にかけて、私の好む遊びは大抵男子が好むような事ばかりだった。

木登り、入り組んだ路地裏を走り回る探検、アスレチック、秘密基地作り、ファミコン

小学校の頃、同じクラスの男子の海老原君をブランコに座らせて自分は同じ座面に立ち、吹っ飛ぶ勢いの立ち漕ぎをして海老原君を泣かせた。彼には悪い事をしたなと思うけれど、二人分の重力と遠心力でいつも以上に高く上がるブランコはとても楽しかった。

ままごとや人形遊びやお絵かきは苦手中の苦手

真っ白な紙を手渡され多彩な色の揃ったクレヨンや色鉛筆を持たされ「何でも好きなものを描いてごらん」と言われるのだけれど、そもそも書きたいものなんて無い、困惑しかない。

「何でも好きなものを」というフレーズで子どもに選択権を与えた気になっている大人の皆様には是非、そもそも描きたいものなんて無い子どもだっている事を知って頂きたい。

ままごとも、よく分からない演技を強いられてただただ恥ずかしいだけだった。

人形遊びに関しては「ただの動かない人形」の一体何がどう面白いのか

私は中流家庭に育った一人っ子の女子だった為、親戚や親からそういう類の物をふんだんに与えてもらっていたし、女子の間では当然のように行われていた遊びだったので、恐らくそこには心を豊かにする大そう楽しい何かがあるのだろうとは思うのだけれど、本当の面白さを知るよりも先に大人になってしまったクチである。

 

人形を椅子に座らせるより、海老原君をブランコに座らせる方が何倍も楽しかった。

 

そんな調子のまま大人になったので
当然ながら私には女性の友達が非常に少ない

そもそも友達自体が圧倒的に少ないのだけれど、とにかく男女比率のバランスがおかしい、20:1くらいの男女比だと思う。

20代そこそこの頃は

「そんな女子って変かな・・」とか
「周りから見たら男の子とばっかり遊んで嫌な女に見えるかな」とか
「男女の友情は成立しない」とか

なんかそんなありふれた色々に惑わされて少しは気にした事もあったけれど、いつの頃からかどうでも良くなった。

 

だってしょうがないやん
シルバニアファミリーまじでおもんないねんもん(※あくまで個人の感想です)

男女の友情の成立不成立って何なの、性的な事が絡んだら友情じゃないとか下心が云々とか?

相手が同性でも
「コイツと付き合ってなんか良い事あるかな」
「おもろいかな」
「一緒にいて楽しいかな」
「自分にとって良い影響を与えてくれるかな、悪い影響を与えてこないかな」
「困った時相談乗ってくれるかな」
「危害を加えてこないかな」
「変な宗教に誘われたりしたら付き合わないでおこうかな」
とか考えると思うんだけど、これは下心じゃなかったら何なの?

同性でも友情の成立しない関係なんてごまんとある。

なんて事を考えながら「来るもの選別、去るもの追わず」で好きにやってて
気が付いたら先の男女比になってた。

その比率をふと感じる時、私は自由だなあと思う

良いか悪いかは別として。

 

 

人間関係を篩(ふるい)にかけたお話 -人を切り捨てるに至るまで-

いまだに父方の親戚が夢に出てきてうなされる元不登校児のみつまりですどうもこんにちは。

不定期更新のこちらのブログの投稿頻度のバランスが悪すぎるのですが、気まぐれに連投させていただきます。

 

私が不登校になった原因は、イジメに遭っていたからでも仲間外れにされていたからでも体罰を受けたからでもありません。

「なんとなく校風に馴染めなかった」ただそれだけの事

ですので、直接的な学校に対してのトラウマなどはありません。

私が最もダメージを受けたのは、学校に行かないという選択をした後に、周囲の人達から手の平を返すような反応をされた事でした。

 

私の場合は、主に父親を始めとする父方の祖父母、親戚から、不登校に関して全く理解を得られませんでした。

そのあれこれはこちらの記事の後半「すべてはあとがきに」にて記載していますたこの記事かよとか言わないで

cake-peropero.hatenablog.com

 

私は一人っ子で静かな家に育った為、親戚と盆正月に集まる賑やかなひと時が当時はとても楽しみな子どもだったのですが

学校に行かない選択をした事により、叔母から『不登校がうつると困るのでうちの子(私の従姉妹)に近寄らないで』と盆正月の集まりから排除され、その後の数年間は「排除されたのは自分に原因があるのだ」と感じ、何とかその人達との関係を取り戻したいと躍起になりながら社会復帰の道を辿り大人になりました。

 

私は障害当事者との結婚離婚を経験していますが、結婚当時にも婚約者の障害を理由に父方の全員から猛反対を受けました。

 

ただ一人、母親だけが応援してくれ父方親戚勢力の前にたった一人で立ちはだかり盾になってくれました。

父方と二世帯同居で生活ごと完全アウェーの中でそこまでしてくれた母親には今でも頭が上がりません離婚してしまってごめんなさい本当にごめんなさいごめんなさいごめ(以下略)

 

すみません話が逸れました

 

あまり事情を知らない人にこの話をすると

「男親っていうのはね…幾つになっても娘の事が心配なものなんやで(微笑)」

と諭すように言われる事が多々あり、私も

「そうかぁ…お父さんってそういうものなんですね(微笑)」

と返しますが、実のところうちの父親に関してはそういう類の反対の仕方では一切ありませんでしたというか私の目にはそう映りました。

『うちの家系に障害者の血が混ざる事が生理的に無理』という純度100%の単なる差別。娘の事が心配なんて100歩譲って後付けで多少はあるかも知れない?かな?くらいです。

いや『うちの家系』って…私の曽祖父山奥で猟銃自殺してるやん?叔母も統合失調症やん?叔父はアルコール依存症やん?私もあなた方から見たら欠陥品やん?その事はぜーーーーーーーんぶ棚に上げて人の事そんな風に言うのおかしくない???彼のご両親がその言葉を聞いたらどんな気持ちになるか分かんないの??あなた方も一応子を持つ親なんじゃないの???言われた側がどんだけ傷付くか分かんないの???

と思いましたが

父親は…父親もまた、おそらく「親の期待に応えなければ」という思いで生きてきたのだろうな、と、これはここ数年で気付いた事。

父親自身にはおそらく自分の考えはなく

「両親(私から見て祖父母にあたる人間)が、孫である我が娘の行動を良く思っていない」

そして

「自分の親に(良い父親になったな)と思われたい」

父親自身が自分の親に認められたい一心で、私の生き方を正したかったのだろうと思います。

当時から、父親の目には私が映っていないように見えていたのは私達の関係性が原因ではなく、私の思い過ごしでもなく、おそらくこのような生育歴が根底にあったからなのでしょう。

 

と、ここまで前フリです。

私は現在、父を除く父方の全員と関係を断っています。

私は猛反対された元夫との結婚の際、結婚式を挙げました。

身内だけの慎ましいものでなく、お世話になった方々をお招きするパーティ形式。

お式は、沢山の大切な方々に貴重なお時間を割いていただき、離婚してしまった今でも生涯胸に残る程とても有難く嬉しいひと時だったと感じています。

 

ただ、このお式は私にとってのもう一つの大きな分岐点にもなりました。

 

結婚式を挙げると決めた際、一応親戚にも招待状を送付したのです、どんな反応が返ってくるのかなという感覚で。

当然ながら父方は父親も含めて誰も来ませんでした。欠席の理由は体調やスケジュール等の関係ではなく差別的なものでした。

それを境に関係を断ちました。

この一件は、私が意図的に「人間関係をふるいにかける」という行為を行った最初で最後の行動です。

 

何とか関係を修復しようとしていた時代、ふと気付いたのです

「相手の気持ちを慮る心を持たない人と無理してまで仲を修復して何のメリットがあるのだろう」
「メリット…何もなくない??」と。

 

どれだけ話し合いの機会を持とうが分かり合えない人とは永遠に分かり合えない。

何が正しいとか何が悪いとかでなく、ただそれだけの事でそこに労力を費やすのは時間の無駄だな、と。

 

父方の祖父母は共に今も健在ですが、現在どちらとも危篤状態にありいつ死んでもおかしくありません。しかしながら、彼らが他界しても私はお葬式には行きません。
親族に会いたくないから。
子どもみたいな理由だなと思われるかも知れませんが…

もし母よりも父が先に他界した場合も同じくですが、私は一人っ子なので母を支えられる人が他にいない為、その場合はやむなく母親の心労を慮って行くかも知れません。

万が一、私が誰よりも先に死んだ場合は、母には「父方の親戚にはお伝えしなくて良い」とお願いしてあります。

ちなみに祖父母や父方の親戚は私が離婚した事も知りません。

 

今私が抱えている最も大きな懸念事項は、母が一番先に逝ってしまった時の事。

母には長生きしていただきたいです。

16歳で一人暮らしをしながら引きこもっていた女の子のお話 ~事実は小説より奇なり~

東日本大震災の時、引きこもりの人は家から出たのだろうか?
それとも引きこもりスピリッツを貫いて、家もろともだったのか・・・
という事が、6年経った今でも物凄く真剣に気になっている元不登校児のみつまりです、お久しぶりです。

メインブログの方では色々書いているのですが、こちらは1ヶ月ぶりの投稿です。

さて、9月1日は子どもの自殺者が最も多いという情報がここ数年で広がり、昔から支援をしている団体を筆頭に、大手新聞社・大手ネットメディア、私のような素人ブロガーまで「ちょ!自殺まってまって!」と喚起する記事も非常に増えたように思います。

それでもなお、ひきこもり等が減ってきているという体感はありません。

40代50代のひきこもりに関する相談件数も増えているとか。
増えているっていうか、元々若かった層が高齢化したという事なんですけれども、なぜここまで長期化するのかというと「相談には基本的に本人が来なければいけない」という支援機関が多いため、そこで進路(退路?)を断たれる人がかなりの人数いるのではないかなというのが私の想像です。

私自身が不登校だった当時も、親がどこかに相談に行こうとして、ご本人が来てくれなければ相談に乗れませんと断られたケースが多々あったと記憶しています。

まあ何というか、私も困っていたので「じゃあ自分が行くしかないのか」となり、私の場合はそれで動いたので、あまり参考になる話ではありませんが

当時、同い年位の人に遭遇する事や
「平日の昼間に子どもが歩いていて変に思われるのではないか」等の強い恐怖心から
外に出る事すらままならなかった私は

始発近い時間の電車に乗って現地まで行き
その支援機関の相談時間まで数時間ビルの陰で待機し
相談が終わったら再び人気の無い時間まで待機して
電車の後部座席の端の端に乗って帰る
みたいな事をしていました。

『当事者が自力で来い』というのは
シンプルに「当事者が外に出るきっかけになる」という意味で言えば良い事かも知れませんし「家にいてもお医者さんに見て貰えるんだったら」という風に思っていたら
確かに家から出なかったかも知れないなーとも思いますが、当事者が外を出るというのは上に記したようにとんでもなくハードルの高いものです。

支援機関・支援者の数に対して当事者の数が多すぎる事や、自宅介入の難しい家庭もあるでしょうが、せめて希望している当事者や家庭に対しては、第一歩外に出るまでの支援としての自宅介入は必要なのではないかと考えます。本人が口頭で支援を希望していないと言っていたり、望んでいないように見えても、好んで自宅に居るのではなく「外に出られない」のであれば、その事実自体がSOSを発していると考えるべきだと思います。 

そして間違い無く言えるのは、私が最終的に外に出られるようになったのは
始発と終電に乗る事を頑張りカウンセリングを受け続けたからではありません。

じゃあ外に出られるようになったのはなぜかというと、幸運な事に友人に恵まれたからかなと思っていますが今回はそのお話では無いのでその友人との出会いに関してはこちらからどうぞ

『岡崎に捧ぐ』山本さほ ~変わりゆく時間の中で変わらない者の存在に救われた私達のお話~ - ケーキのフィルムをペロペロする奴は大体友達

 

 

話を戻します。

二ヶ月ほど前、内観療法という心理療法の体験談を書きました。

onorenomai.hatenablog.com

こちらの記事には書きませんでしたが、実はこの監禁話には後日談がありまして・・・
同じ部屋で一緒に監禁されていた、知らない人のうちの一人がたまたま私と年齢の近い女の子だったのです。
私達は監禁中、小さな紙きれに電話番号と住所を書いて、カウンセラーの目を盗み、こっそり連絡先を交換しました、アルカトラズか。

 

その子は某他県から大阪に出てきた一人暮らしの16歳で

今考えると、経済的な意味ではなく炊事洗濯掃除買い物などどうやって生活していたんだろうと思うんですけれど
とにかく、その一人暮らし先で1人で引きこもっていたのです。

本人曰く、実家がとある温泉地で大きな宿を経営していて
結構なお金持ちだそうで、親がお金を送ってくれるので
お金には不自由していないとの事

その子も私と同様に「外に出るのが怖い」子だったのですが
私とは別次元、タクシー移動で難局をしのいでいました。

今でも強烈に印象に残っているのはその子の面影

アムラー大流行により皆が茶髪でけばけばしい装いだった時代に
黒髪ロングヘアで色白で華奢で儚げで・・・そういう外見は今では珍しくありませんが、当時はある意味新ジャンルのとても綺麗な子でした。

一人暮らしで学校も行っていないし仕事もしていなかったので
いつ寝てるのか起きてるのか分からない生活

ご飯をほとんど食べず、その代わりに
当時販売されていた煙草の中で一番きついとされていた
缶ピースという物を嗜好品としてずっと吸っていました。

そして、凄く寂しがり屋さんでした。

「押しの弱そうな綺麗な女の子・寂しがり・一人暮らし」
あと、今考えると
自分を大切にする方法が分からない子だったのかなと思います。

色々と揃っている彼女は、タクシーに乗るたびに
タクシー運転手と密な関係を結ぶようになり、彼女の自宅は
何人かのタクシーの運転手の性処理兼休憩所になっていました

繰り返しになりますが、当時の彼女は16歳でした。

その子とは、私が後にバイトを始めたり
何だかんだで忙しくなって気が付いたら連絡が取れなくなっており
自宅にも直接行ってみたのですが、既に引き払われた後でした。

 

と、何を伝えたいのかよく分からない記事になってしまいましたが
彼女が自力でタクシー通いをしながらカウンセリングに通っていた事は
果たして彼女にとって良い事だったのか
自宅への介入があればもっと違う形になっていたのではないか
という事を、今でも考える時があります。

どちらにせよ、彼女の場合はタクシー運転手と私以外、頑として自宅に入れなかったと思いますが

もう40歳が目の前に迫っている私の人生で、彼女と過ごした短い日々は
時と共に薄れゆく記憶の中で、いまだに夢か幻のように非現実的で
まるで小説の中の出来事のようだったと感じる思い出の一つです。